「伝統」や「慣習」は、思考を停止し、良くない状態をそのままにしてしまう危険な言葉かもしれない。

「伝統あるナントカカントカ」や、「古き良き慣習のナントカカントカ」などといった言葉を耳にすることはないでしょうか。確かに伝統には素晴らしい物もあります。しかし、「伝統」や「慣習」が、思考停止ワードと化し、目の前にある良くない状態(法律違反など)を解決せずに放置してしまう、危険な言葉になっていないかとも思うのです。

伝統や慣習も、きちんと法律を遵守し、無理なく持続できるものでなければならない

  • 伝統や慣習には、素晴らしい物もある。しかし、だからといって法律に違反していいわけではないだろう。伝統も慣習も、きちんと法律を遵守する形に変化する(あるいは淘汰される)必要はある。
  • そして、伝統や慣習を持続させるなら、できれば無理なく持続できるものであって欲しいと思う。無理して続けるものだと、必ずどこかで無理したツケが回ってくる。命あっての物種。休みは人間にとって必要不可欠な時間。
  • 伝統や慣習も、時代に適応せずに硬直化するといずれ淘汰されることになる。淘汰されないためには、時代に適応し、変化し続ける必要があるのではないだろうか。

時代変われば慣習変わる

昔の日本では、滅私奉公の精神が礼賛され、結果として高度経済成長を成し遂げることはできましたが、同時にサービス残業や休日返上など、プライベートを軽視し、労働基準法を無視した慣習が生まれたのも、昔のことではないかと思います。しかしながら、当時は会社が長期間にわたって社員の生活を保証することができたので、大した問題にはならなかったのではないかと思います。巨大なムチと引き換えに、巨大なアメもあった時代と言えるでしょう。

一方、現在では会社が長期間にわたって社員の生活保障を確約できるかと言われれば、答えはNoになると思います。経済情勢は不安定になり、高度経済成長のような安定的な高成長は望めず、物価は上がれど給料上がらず。一寸先は闇の言葉通り、いつリストラされるかも分からない状況になってしまいました。もはや会社勤務で巨大なアメを用意することは不可能です。そこに旧態依然としたサービス残業や休日返上といった、労働基準法ガン無視、ワークライフバランスガン無視の慣習をそのまま持ち込んでしまったら、巨大なムチだけが残ってしまいます。

アメとムチのバランスでかろうじて成り立っていた慣習ですが、現代においてはアメの部分だけ消え去っています。気がついたらムチだけがそこに残っていたのです。かくして労働問題は一気に表面化し、サービス残業(労基法違反)などさせようものなら即刻「ブラック企業」の烙印を押されることになりました。古くから続いた慣習も、変わることができなければ、激しい批判に晒され、いずれ淘汰される運命にあるのです。

この例からもわかるように、時代が変われば、それに応じて慣習の方も変わらなければ、批判され、それでも変化を拒めば、淘汰されるのです。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の句は有名ですが、望月(満月)もいつかは欠けるのです。時代が変われば、慣習も変わります。

法律違反な慣習は淘汰されなければならない

さて、先程も上げたサービス残業の慣習ですが、これは明白な労働基準法違反なので、3秒以内に完全に無くならなければならない悪しき慣習です。また、残業するのが当然・定時帰宅ダメ絶対みたいな空気を醸し出している職場もあるかもしれませんが、そもそも労働基準法で週40時間労働がはっきり規定されており、残業はあくまで「例外」です。残業しなければ日常的な業務もまともに回らないとしたら、会社のシステムや人員配置、人数それ自体に問題があると言わざるを得ないでしょう。

法律違反な慣習は、当然に淘汰されるか、あるいは合法的な形に変化して生き延びるかのどちらかの道を選ぶことになります。どんなに長い伝統がある慣習でも、法律違反は法律違反であり、生き延びるためには現代の法律に合わせて変化しなければならないのです。みなさんも、身の回りにある様々な慣習を、法律的観点で見直してみれば、無茶苦茶なものが存在するかもしれません。

生物は、環境に適応することで生き延びてきました。伝統や慣習も同じです。生き延びるためには、多かれ少なかれ、変化は必要です。時代に適応出来たものは生き残り、適応できなかったものは淘汰されます。私たちには、「伝統」や「慣習」の言葉で思考停止せず、時代の流れと法律に合わせ、常に変化することを考える必要があるのではないでしょうか。

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