「違い」に寛容になれない社会に明日はない。

2015年12月16日の最高裁判決。民法の2つの規定のうち、「再婚禁止期間」の方は違憲判決が下りました。こちらは日本社会から性別による差別をなくす上で大きな一歩になると思います。しかし、「夫婦同姓義務付け(選択的夫婦別姓を認めない)」の方は合憲とのことです。もっとも、「夫婦別姓の禁止」は合憲と最高裁判断 女性裁判官3人は違憲(フジテレビ系(FNN)) – Yahoo!ニュースこちらのニュース記事によると、裁判官15人のうち3人いる女性裁判官の全員と2人の男性裁判官は違憲であると判断したようですが。あくまで「選択的」夫婦別姓なのですから、それだったら姓を変更する自由と変更しない自由は両方保たれるわけです。なぜ姓を変更しない自由を認められないのか。「違い」に寛容になれない日本人の現れかもしれません。

「違い」によって活性化される社会

  • 日本社会はとにかく「違い」を嫌うことが多い。みんな一緒を好む。そして「違い」がある人を全力で排除する。それも子供の頃から(←これを人は「いじめ」という)。
  • 多様性が叫ばれて久しいが、「違い」を全力で排除するのは全然変わっていない(それがいじめ(という名の凶悪犯罪)による悲惨な事件につながっている)。もっと「違い」に寛容になってもいいはずなのに。
  • 「みんな違って、みんないい。」この名言を思い出そう。違いに寛容になれなければ社会情勢はより悪い方へ傾く。寛容になれればより良い方へ向かう。

選択権が個人個人に与えられるものをなぜ許容しないのか?

日本で言われている夫婦別姓は「選択的」夫婦別姓なのですから、別姓にしたい人だけ夫婦別姓を選択し、同姓がいい人は今までどおり夫婦同姓を選択すればいいだけの話です。その辺りの選択権を個人個人に与えるならば、夫婦別姓の導入に何ら問題はないはずです。なのになぜ夫婦同姓の強制が合憲になったのか。日本社会にいまだ根強い「同調圧力」の存在も無視できないでしょう。

日本では、学校システムによって、協調性・同調圧力・全体主義を善とし、多様性・異質性・個人主義を悪とする前時代的というのも申し訳なくなるほど経年劣化で腐敗しきった教育がいまだ存続し、いじめ問題一つまともに解決できずに、生徒に箝口令を敷いてまで隠蔽しようとしたり、部活動の強制で部活以外の活動を実質制限したり…現代に求められている「多様性」と「寛容」の精神がどこにも見当たりません。そこにあるのはブラック企業に適応するための教育。ある種の洗脳とも言えるでしょう。いくら何でもこれはひどい

子供の頃から「みんなと同じ」を求められ、できない人は容赦なく「いじめ」という形で弾圧・抑圧される。弾圧された彼らは学校内で居場所を失い、卒業(運が良ければ次のクラス替え)までの間、いつ終わるともしれない恐怖と孤独と絶望に満ちた生活を余儀なくされます。そして現場の教師も特にこの現状を変えようともせず(むしろ同調圧力に満ちた空間を維持しようとさえしている)、居場所なく彷徨う彼らの中には自殺という選択をする人まで出てきます。同調圧力を強化し、異質なものを容赦なく排除するように教育しているのは完全に教育システムの欠陥です。

そして、そんな教育が是正されないまま大人になれば、同調圧力と弾圧の伝統もそのまま職場に社会に持ち込まれ、その伝統は正しくその子どもたちに継承され、いじめの被害者は増え続け、自殺者数もまた増え続け…完全に負のスパイラルです。どこかでこれを断ち切らねばなりません。そしてこれを断ち切るべきなのは、多様性を求められる現代を生きている私達なのです。「みんな違って、みんないい」の思想への転換が今まさに求められているのです。

多様性を善とする方向へ。教育の転換も必要だ!!

これまで日本社会には同調圧力と全体主義が満ち溢れ、馴染めなかった一部の人にとってはとても生きづらい時代が続いていました。いまこそ同調圧力と全体主義の壁を徹底的に破壊し、多様性を善とし、真に個人を尊重し、他人に寛容になれる社会を作るべきです。

他人に寛容で互いを尊重できる社会を作るためには、全体主義と同調圧力に満ち溢れた学校にも容赦なくメスを入れ、改革を断行する必要があるでしょう。難しい課題ではありますが、先送りにするわけには行きません。こうしている間にも、新たないじめ被害者が生まれ、悲惨な事件は起きているかもしれないのですから。夫婦別姓問題も、先送りにできる課題ではありません。こちらにも多様性(といっても同姓 or 別姓 ですが)を認める必要があると考えます。

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