道徳を教科として評価するのは、国家による子供への洗脳につながりかねないから、やめるべきだと思う。

小中学校にある(といっても実際には他のことをすることがまれによくある)「道徳」の授業。この記事を読んでいる皆様は、道徳の授業で何を思い、どのような考えを持ったでしょうか?答えは人それぞれだと思います。それが当然であり、みんながみんな同じ答えだったら、それこそ国家による洗脳を疑うレベルだといえます。しかし、その道徳で、点数評価が行われるといいます。点数評価したら、それこそ国家による洗脳に繋がる気がします。

道徳と5段階評定を結びつけるのはなあ…

  • 5段階評定をつけるなら、おそらく5になる答え、4になる答え、3になる(略)、2に(略)…が示されるのだろう。そうなるとみんな「タテマエの答え」しか出さなくなる。だってみんな5がほしいから。これじゃあ道徳をやる意味が無い!!
  • 点数以外になるとしても、結局「評価」されるわけだから、やっぱり高評価を得たい子は高評価になる「タテマエの答え」を出すだろう。やっぱり意味がなくなるじゃん!!
  • みんな考え方は人それぞれ。異なる考えに触れ、多様性について考えてこその道徳。教科化すると多様な答えが期待できなくなるのでは?

国家の暴力性と教育

国家というものは、なかなか暴力的なシステムです。そしてそれは、子供への教育によって変化していきます。道徳を通知表の評価の対象にするのは、国家の画一的な考えを子供に強制し、洗脳していくむちゃくちゃなシステムになりかねません。まあ、中には本音と建前を上手に駆使して表面を高評価に取り繕い、胸のうちには本音を持つ子供も出てくるでしょうが。彼らは時代の波の中を生き残り、世界を変える可能性を秘めているでしょう。

道徳を採点するというのは、生徒だけでなく、先生にも負担になります。考え方は人それぞれですから、そのそれぞれに対して適切な評価をしろと言われても、評価のしようがありません。かと言って学習指導要領なんかに評価基準を示せばそれこそ国家による洗脳計画が大いに反映されることになり、国民に不都合なこと(極端に言えば徴兵制の復活など)を実行するための布石になってしまいます。

道徳教育は、子供の心の内面深くに関わる難しいものです。人の考え方は多種多様で、自分と異なる考え方をする人は当然たくさんいます。考え方の違う人が接触した時に、各人がどのように振る舞い、どうすれば理解を深めていけるか。これは一筋縄では行きません。しかし、多様性を認めることができないままだと、学校内ではいじめにつながり、学校を飛び出せば(突き詰めると)戦争に発展する原因にもなります。平和を望むならば、道徳教育から目をそらすわけには行きません。

多様な考え方

現代社会は個人尊重の時代です。むちゃくちゃな連帯責任システムや、会社への滅私奉公はもう過去の遺物です。会社と社員は所詮は他人なのです。会社に雇われるのも紛れもない契約です。だからそれぞれに契約を守る義務が生じます。会社が契約を守る義務を放棄した時、ブラック企業は生まれてしまいます。サービス残業させる地点で、もう会社は契約(と労働基準法)を破っています。つまり会社が社員にサービス残業をさせるのは、契約違反であり法律違反です。

話がそれましたが、人によって考え方は違います。正しいただ一つの答えは一体どこにあるのでしょう。例えば「友情」とは何か。私は「個人の自由を尊重し、多様性を認め合える関係」だと思いますが、答えはきっと人それぞれです。この問題において、絶対的に正しい答えなんていうものは、おそらく無いでしょう。

考え方のすれ違いが深まり、学校内ではいじめに発展し、国家レベルでは紛争に発展します。現代社会がどうなっていくかは、おそらく多様性を認められるかにかかってくると思います。難しい問題ではありますが、道徳教育について。人類の多様性について。改めて考えてみませんか。

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