運動会や体育祭、体育の授業などにおいて「運動能力は最低限でいいから練習やトレーニングには極力エネルギーを割きたくない」という思想の運動音痴は許されざる存在なのか

今回は半分くらい筆者の愚痴です。体育の授業や体育祭などがある学校において、「運動能力は最低限でいいから練習やトレーニングには極力エネルギーを割きたくない」という思想の運動音痴は許されざる(迫害されても仕方ない)存在だというのでしょうか。

もくじ

  • 「体育」という科目の特異性。体育に存在する連帯責任が人々を苦しめる。
  • 集団競技をやると、チームとして評価される。チーム全体の評価を守ろうとした時、運動音痴に対する迫害が始まってしまう。
  • 「体育」は消え失せて欲しい。せめて連帯責任をなくし、すべての評価は個人単位で行われるようにして欲しい。

「体育」という科目の特異性。体育に存在する連帯責任が人々を苦しめる。

学校には様々な科目がありますが、その中でもひときわ異質な科目があります。「体育」です。皆様は学生時代に体育が好きだったでしょうか。私は体育が嫌いかつ苦手でした。今も昔も体力など無い私にとって、体育はまさに拷問だった記憶があります。

体育が異質な存在である理由としては、「連帯責任」の存在が挙げられます。誰か一人が何かしらの失敗をしたらチーム全体が責任を取らされるアレです。誰か一人が準備運動などの時に声が出ていなければクラス全体に罰則適用。誰か一人が遅刻したら全員が怒られる。…そんなシステムの中で、失敗をしでかしたらまず間違いなくクラス全員から白い目で見られることでしょう。いつ自分が失敗をしでかし、迫害される側に回るかと思うと恐怖と絶望しか感じませんでした。

仲間意識だ何だといわれますが、軍隊のように一つのミスがすぐに命に関わるようなところでもない限り、連帯責任は必要ないでしょう。個人の失敗は個人の責任。自分が失敗してもそれによって他人が罰せられることもなく、他人が失敗しても自分に責任がなければ罰せられない。それでいいではないですか。…このようなな意見を黙殺あるいは弾圧してしまうのが、体育の恐ろしさなのかもしれません。

集団競技をやると、チームとして評価される。チーム全体の評価を守ろうとした時、運動音痴に対する迫害が始まってしまう。

連帯責任はその場の叱責・懲罰にとどまらず、内申書に書かれる成績にも響いてくる場合があります。何人かのチームで行う競技の場合、チームの対戦成績は当然ながらチーム全体のものです。体育で行う種目に集団競技が取り入れられたら最後、評価はチーム全体に行われ、チームの評価がチームメイトの評価ということになります。

そうなってしまうと、成績を上げるためにはチーム全体の成績アップを図らなければならない状況に追い込まれます。かくして、体育に命をかけるような運動エリート(脳筋)が運動音痴(特に競技に全力を投入しようとしないタイプ)に対する迫害を始めてしまいます。運動音痴は鬼教師と脳筋生徒(ルビ:しけいしっこうにん)に囲まれ、地獄の日々へと強制送還されます。体育祭などのときも、やはりチームの成績を上げたい脳筋が運動音痴を迫害します。

…国語や数学などの科目では、成績は全て個人に帰属します。他人の成績がどんなに悪かろうと自分が100点を取ればその事実は覆りませんし、逆に他人の成績がどんなによかろうと自分が赤点を取ってしまえば自分が赤点マンであるという事実は変わりません。成功も失敗も全てその責任は個人に帰属し、自分がどんなにやる気がなくてもどんなに悪い成績でも、それによって他人に迷惑をかける事はないのです。

しかし体育では、成績が悪い人がチームメイトに迷惑をかけてしまうという構造的な問題を抱えています。集団競技・連帯責任が完全に放逐されない限り、運動音痴がチームメイトに迷惑をかけてしまう構図はそう簡単にはなくならないでしょう。頭が足りない脳筋は運動音痴を「迫害」しますが、運動が得意で良識派に属する人々は、運動音痴に対して競技の練習をすることを要求(あるいは提案)します。

しかし私のような体育の評価を完全に捨てたやる気ゼロの人間にしてみれば、「体育の単位を貰えればそれでいいからできるだけ練習やトレーニングはしたくないし、体育祭もできれば出たくない。少なくとも死に物狂いで練習するようなことはしたくない」というのが偽らざる本音です。私にとって、脳筋は露骨に迫害してくるので苦痛でしたが、良識派の人々が「放課後に練習しようよ」と言ってくるのも対処に苦慮しました。「放課後は各自の自由時間なんだからさっさと帰りたい」というのが本音ですが、良識派は(少なくとも建前上は)こちらのことを配慮しているだけにやる気ゼロな本音をストレートにぶつけることは憚られます。

体育以外の科目なら、やる気ゼロな態度で授業に臨んでも、勉強せずにテストで0点を取ったとしても、自分が単位を落とすだけで、学費を出してくれている人(多くは自分の親)以外に迷惑をかける事はありません。よって、「単位さえ貰えればいいからできるだけ勉強したくない」あるいは「もう単位も要らないからできるだけその科目にエネルギーを割きたくない」というやる気ゼロな人の存在も、おそらく許容されます。しかし体育では、やる気ゼロな人の存在が許容されず、迫害を受けざるをえないようです。嗚呼。

「体育」は消え失せて欲しい。せめて連帯責任をなくし、すべての評価は個人単位で行われるようにして欲しい。

そんなこんなで今も昔も運動音痴を苦しめ続ける体育ですが、私としては、体育という科目そのものを廃止するか、せめて連帯責任の要素を一切合切排除し、すべての評価が個人単位で行われる新しい形の体育に生まれ変わってほしいと思います。

体育を地獄にしてしまう諸悪の根源は連帯責任です。学校は軍隊ではありませんから、連帯責任の恐怖によって失敗ゼロを目指す必要はないはずです。失敗も成功も全ては個人の責任であり、少なくとも一人の失敗によって全員が処罰される必要はありません。そして、成績評価も全て個人単位で行い、運動音痴を迫害しなくても本人が適切に評価されるシステムを整備する必要があります。出来の悪い人とペアになったせいで出来る人の評価が下がるような悲劇が発生しないシステムになれば、多少なりとも運動音痴への迫害を減らすことが出来るでしょう。

余談ですが、私は苦手で嫌いな体育の中でも、長距離走はそこまで嫌いではありませんでした。長距離走は過酷ではありましたが、評価は全て個人に帰属し、足が遅い人でも他人に迷惑をかけずに済んだので、球技などの集団単位で評価される種目や集団行動のような全員のスキルや団結力を要求される種目よりははるかにマシに思えたのです。…最も、連帯責任を取り入れられていたら長距離走にも憎悪感が湧き出したかもしれませんが。

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