物事を何でも屋に押し付けるだけでは限界がある。餅は餅屋とはよく言ったものだが、何かしらの対価を払って物事を専門家にやってもらうことは、より楽により良い生活を送るために必要だ。

なんでも出来る完全無欠のスーパーマンを用意することは、現実には難しいです。全ステータスに均等に能力を振り分けた何でも屋に何でもかんでもやらせるよりは、何かしらのステータスに極振りした専門家に対価を払って物事をやってもらうようにしたほうが、より楽によりよい生活を送れるのではないでしょうか。

もくじ

  • 時間は有限だから、全ステータスを限界まで伸ばすのは極めて難しい。すべてが平均レベルの何でも屋だけでは限界がある。
  • 違う分野を極めた専門家を複数名用意し、仕事を分担すれば楽に良い仕事が出来るはずだ。

時間は有限だから、全ステータスを限界まで伸ばすのは極めて難しい。すべてが平均レベルの何でも屋だけでは限界がある。

1日が24時間であることは、どんな金持ちであろうと貧乏人であろうと同じです。いくら技術の習得過程を効率化しても、技術をゼロ秒で習得することはおそらく不可能でしょう。書籍代や道具代、あるいは学費などの必要経費だってありますから、世の中で行われるあらゆるすべてのことを完璧にできる人間を育てることは、少なくとも現時点では不可能です。

ゲームで言えば、各ステータスの合計値に上限がある状態です。全ステータスを限界まで伸ばすことが不可能な場合、選択肢は

  • 能力値を全ステータスに均等に割り振る(平均レベルの何でも屋を目指す)
  • 各ステータスに必要最低限の数値だけ振り分け(あるいは無振り)、特定のステータスを限界ギリギリまで強化する(何かのエキスパートを目指す)
の二つです。どのような人になるかは個人の自由ですが、世の中のすべての人が「平均レベル止まりの何でも屋」になってしまうと、どこかで行き詰まりを迎えます。

「平均レベル止まりの何でも屋」しかいないと、ある分野の難問を解き明かせるようなエキスパートが存在しないわけですから、難問は解き明かせないまま残ってしまいます。また、社会全体が個人に対して「平均レベル止まりの何でも屋」になることを求めだしてしまうと、苦手分野もなんとかしてみんなと同じレベルまで伸ばすことを強要されます。「苦手なもの」=「嫌いなもの」である場合も多く、嫌いなものを嫌々やる羽目に陥る恐れは大いにあります。

得意なこと・好きなことを存分に出来る環境があればそれを心の支えに出来ますが、「平均レベル止まりの何でも屋」を求める社会においては「得意なこと」に振る時間を減らし、「苦手なもの」をすることを強要されるでしょう。これではストレスが溜まるばかりです。…流石にこれは極論ですが、「何でも屋」を求めることは、個人の得意なこと・好きなことを叩き潰し、才能を潰してしまうリスクが有るということです。

違う分野を極めた専門家を複数名用意し、仕事を分担すれば楽に良い仕事が出来るはずだ。

個人が好きな分野に注力できる環境であれば、苦手なことを最低限のレベルで止め、得意なこと・好きなことにリソースを注ぎ込めます。得意なことをさらに強化するのですから、好きなことを思う存分できる環境ならば、きっと何かの分野の専門家が育つでしょう。「好きこそものの上手なれ」ということわざもあります。

個人個人で得意なことや好きなことは異なりますから、多くの人が自分の得意なこと・好きなことの専門家になれば、社会には様々な分野の専門家が存在するようになります。ここまで来れば、苦手なことは何か対価を払ってそれが得意な専門家に丸投げし、自身も得意なことを引き受け、依頼主から対価を貰って生計を立てられるような社会になります。これこそまさに「分業」です。

…最も実際には、せっかく育成した専門家が何でも屋と化してしまうこともあります。例えば学校の先生は教科指導の専門家ですが、実際には教科指導以外のことに多くのリソースを割いているようです。

教科指導以外の仕事(教員免許がなくても出来ること)を切り出して専門家にお願いできるようになれば、学校の先生は教科指導に集中でき、良い授業を行えるようになるはずです。それによる受益者は子どもたちであり、未来の社会でもあります。子どもたちに良い教育を施して良い納税者を育てることができれば、社会全体が教育の利益を享受できます。「教育は未来への投資である」という視点を持ち、国家も教育や技術研究にもっとカネを回してほしいと思う次第であります。

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