カテゴリ:現代社会へ思うこと
投稿日:2016年05月18日
最終更新日:
会社の副業禁止規定といい、休みの無い部活動といい、日本においては(趣味の範疇・休日などの自由な時間に)「一つのことに集中する」事を求めすぎているのではないかとも思います。「複数のことを少しずつやる」ことを認めてもいいのではないでしょうか。
「一つのことに集中してよそ見をするな」というスタンスを強制するのはいかがなものかと思う。「複数のことを少しずつやる」のも世界が広がっていいかもしれない。
- 会社の副業禁止規定や学校の休みなき部活動は完全に「一つのことに集中してよそ見をするな」というスタンス(副業禁止規定は社員を奴隷化しようというブラック企業の非人道的な思想が丸出し)。しかしこれでは個人の未知の才能を発見する機会を容赦なく刈り取ってしまう。「複数のことを少しずつやる」ことを認めてもいいのではないか?
- 社員の副業を認めたり、もっと進んで「一人の人が複数の会社に(正規で)雇われて働く」事を認めれば、社員は複数の収入源を得ることができる。社員の生活(ひいては精神)は安定し、企業としても視野が広がった社員を雇える。部活動も休みをガンガン増やして他の部活動や部活動以外の活動もできるような時間を確保すれば、生徒の世界は確実に広がる。
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投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年05月16日
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日本では大災害が起こるとどこからともなく「自粛ムード」が漂うことがあります。東日本大震災の時も自粛ムードが漂い、暫くの間テレビのCMが公共広告機構(ACジャパン)のもの(あいさつの魔法。(通称ポポポポーン)など)で埋め尽くされたことを覚えている方もいるのではないでしょうか。しかし、自粛のし過ぎは経済を萎縮させ、復興への勢いを削いでしまうと思います。普段通りに生活できる人は、普段通りの生活を過ごしたり、時には積極的に楽しむことによって日本経済を良い方向に持って行き、それによって間接的に復興支援をするという選択肢もあるのではないでしょうか。
復興のためにはお金が必要になってくるが、お金は勝手に湧いてくるわけではない。積極的に楽しんで経済を良い方向に持っていくことで、復興を支援することもできる。
- 大災害が起きるとどこからともなく漂ってくる「自粛ムード」。自粛することで余ったエネルギーが被災地支援・復興に振り向けられるのならばわかるが、実際にはそうなっていない部分もある(復興予算が復興とは関係のないところに流れていた事例も。参考リンク)。自粛することで経済が萎縮して、それが復興の妨げになってしまっては意味が無い。無意味な自粛はしなくてもいいと思う。
- 普段通りに生活できる人は、普段通りの生活を送ったり、積極的に楽しんだりすることで経済を良い方向に持っていき、間接的に復興支援を行うという選択肢もある。自粛することや被災地でのボランティア活動だけが復興支援ではない。義援金を送るのは直接の金銭的復興支援だし、(事態がある程度落ち着いてからでも)旅行に行ったりするのも復興支援になる。普段通りの生活をするのも経済的支援の一形態。
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投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年05月15日
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2016年5月10日に、文部科学大臣は「ゆとり教育と決別する」という趣旨の発言をしました。(資料→馳浩文部科学大臣記者会見録(平成28年5月10日):文部科学省) 「これだからゆとり世代は云々」と差別的発言をされることも少なくないゆとり世代ですが、そもそもゆとり教育を実施することを決めたのは国家です。
「ゆとり教育との決別」は、つまり「ゆとり教育はダメだった→ゆとり世代はダメだ」と国家が結論づけてしまうようなもの。すなわちゆとり世代差別。ゆとり教育を推進したのは国家なのに。ゆとり世代に対してあまりにも残酷ではないか?
- 国家を運営するのは人間だから、失敗が発生するのは致し方無い。だが失敗の犠牲者を差別したり貶めたりすることは許されないはずだ。「ゆとり教育」と「ゆとり教育と決別する」発言の組み合わせはおかしい。「ゆとり教育の全否定ではない」とも言ったが、やはり「決別」という表現では「ゆとり教育は失敗だったんだな→ゆとり世代はやっぱりダメなんだな」という見解を国家が公認することになってしまう。
- 「ゆとり世代」の学生がダメなわけでもなければ失敗したわけでもない。失敗したのはゆとり教育を行うことを決めた国家であり、つまり当時の大人たち(政府の中の人)である。自分たちでゆとり教育を推進してゆとり世代を生み出しながらゆとり世代を差別するとは何たることか!このような惨事が二度と起こらぬようにしなければならない。
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投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年05月13日
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完全自動運転の自動車が完成すれば、我々は自動車の運転から解放されるでしょう。しかし、自動運転の車が事故を起こした時の責任の所在についてはきちんと考えなければなりません。以下は私個人の見解と意見になります。
自動車の運転に人間が介入しなくなる時代がやってくる。自動運転の車が事故を起こした時に、果たして誰が責任を取らなければならないのか?
- 完全自動運転の車の場合、人間(自動車ユーザー)は自動車に乗って目的地を設定すれば、後は寝ていてもいいしゲームをしてもいいし(成人ならば)酒を飲んでもいいはずだ。飲酒運転や脇見運転、居眠り運転というものは存在しない。ハンドルを握ることもなければアクセルやブレーキを踏むこともないのだから。よって自動車ユーザー(運転者)が原因で事故が起きるようなことはない。
- 自動運転の車の場合、自動運転を支えるシステム故障しているor外的要因(子供が突然飛び出してきた、道路に突然物が落下した、など)によって事故が起こる可能性は排除できない。システム故障はシステム製造者の責任になる部分もあるし、必要なメンテナンスを怠って故障したなどの場合にはユーザーにも責任がある(むしろこの場合に製造者に責任を負わせるのは製造者に対して残酷な仕打ちと考えられる)。外的要因・不測の事態の場合はどうしようもない。責任の所在をはっきりさせるのは大変である。
- 責任の所在がはっきりしないという理由で事故の被害者への賠償がなされないという悲劇は避けなければならない。自動運転の時代になったら、自動車ユーザーと自動車メーカーの双方が保険に加入して事故に備えなければならないのではないかと思う。自動運転システムの初期不良で起きた事故はメーカーの責任だし、必要なメンテナンスを怠ったせいで起きた事故の責任はユーザーにある。不測の事態への備えは自動車ユーザーとメーカーが共同で行う必要があるかもしれない。
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投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年05月11日
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小学校かなんかで「生活リズムチェックシート」みたいなものを書かされた(提出させられた)人もいるかと思います。私はあれに何の意味があるのかさっぱり分かりません。学校では生徒の私生活や生活リズムまで管理しないと気が済まない人間が支配者階級にいるのでしょうか?謎です。(生活リズムチェックシートの例はこちら)
学校は児童生徒の私生活まで管理する必要はないはずだ!!
- どうして放課後や休日といった学校とは無関係な時間の過ごし方まで学校がチェックしなければならないのかが理解できない。生活習慣に至るまでを学校が厳格に管理しようとしているのか?学校が休日まで管理(支配)するのはおかしい。
- 私も小学生時代には生活リズムチェックシートみたいなものを書かされたが、高学年になった頃にはもう適当に嘘を書くスキルを身に着けていた。学校とは無関係の時間を学校に管理されたり監視されるのが嫌いだったから。生活リズムは学校が介入しなくてもどうとでもなると思うのだが。学校に何でもかんでも丸投げするのはいかがなものかと思わなくもない。
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投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年05月08日
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こういう形で増税の必要性を訴えてくるとは誰が想像できたでしょうか。財務大臣になって財政改革を進めよう :: ゲームコーナー :: 日本の財政を考えるでプレイできる日本の財政の黒字化を目指すゲームが何とも言えない作りです。
もくじ
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投稿者名:
Koguma