意識不明のままの延命治療を望むかは人それぞれ。尊厳死・安楽死を合法化してもいいのではないか?
投稿日:2016年01月31日
最終更新日:
尊厳死・安楽死の道を開く意義
- 治療不可能な病気にかかった時に延命を望むか否かは人それぞれ。延命を望まない(=安楽死・尊厳死の希望)ことも認められるべき。
- 日本国憲法でも、幸福追求権は公共の福祉に反しない限り最大限尊重されるべきものと扱われている。自らの生き方を自ら選択する権利が存在するならば、その権利は自らの死についても適用されるべきである。
- 考え方は色々だが、単に選択肢を増やすだけならば、従来のやり方がいい人は従来のやり方を続ければ良いだけである。選択肢を増やすことは、多様な生き方を認めることではないか。
最大限の延命を望むか、尊厳ある安楽死を望むか?
病気も怪我もすることなく、最後の日まで自らの足で立って歩き、自らの口で美味しいものを食べ、寿命で安らかに死を迎える…これができれば人生の終わり方としては素晴らしいものであると思います。あくまで私個人の考えなので、この辺も人それぞれだと思いますが。しかし現実には、病気で死を迎える人も少なくありません。平成27年(2015)人口動態統計の年間推計(PDF)では、死因のトップに悪性新生物(がん)がトップで、以下心疾患、肺炎と続きます。病気で死ぬこともまた多いということになります。
そうなってくると、どうしても治療しても回復の見込みが無い人は出てきます。その時に延命治療を行って可能な限り命が終わるまでの時間を長くするか、あるいは延命治療を行わずに、延命治療による苦しみを回避するか、という選択があるでしょう。もちろん回復の可能性があるのならば治療によって回復を望む人が大多数だと思いますが、それでも患者が取りうる選択肢の一つとして、「尊厳死・安楽死」を追加してもいいのではないかと思うのです。
日本国憲法第13条には、
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。とあります。幸福追求権は、憲法でも公共の福祉に反しない限り最大限に尊重されるべきものと扱われています。幸福の形は人それぞれです。そして、幸福を実現する手段もまた人それぞれです。そうであるならば、尊厳死や安楽死も、幸福追求の手段の一つとして、認められるべきだと考えます。
考え方は人それぞれだが、選択肢を増やすことは悪く無いと思う
この手の話題に限らず、何かに選択肢を追加するときに、様々な議論が巻き起こることがあります。例えば選択的夫婦別姓を認めるか否かも、結婚時の姓の取り扱いに、これまでの「夫婦同姓」の選択肢の他に「夫婦別姓」という新たな選択肢を加えるか否か、ということになります。こちらについても、夫婦別姓という選択肢を追加すれば、夫婦同姓がいいという人は従来通りにしたまま、夫婦別姓がいいという人がそれを選べるようになるのです。その点においては選択的夫婦別姓は認められるべきだと考えています。
話がそれましたが、つまりは人生の終わり方の選択肢として、尊厳死・安楽死を加えるべきであるということです。選択肢を追加すれば、従来通りの手法がいいという人はそのままそれを続ければ良く、新たな手法を望む人にそれを実行する道を開く事ができ、結果としてより多くの人の幸福を実現できる、ということなのですから。