カテゴリ:現代社会へ思うこと

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何かを良くしたいならば、やることを増やすだけではいけない。時にはやることを減らさなければならないこともある。

投稿日:2016年07月08日
最終更新日:

例えば、常駐ソフトがてんこ盛りのPCの動作を改善しようと思ったら、常駐ソフトを減らせばいいだけの話です。常駐ソフトが減少すれば無駄に食いつぶされるリソースが減るので、リソースの余裕ができて軽くなります。現実世界においても、何かを改善する際に「やることを減らす」ことが有効な場合は必ずあると考えます。

なんの支援も対策もなしにやることが増えたら人間が疲弊してしまう。やることを減らして余裕を作ったほうが良い結果が出る場合もあるはずだ。

  • やることを増やすのであれば、その分人員などのリソースも増やす必要がある。それが出来なければ一人あたりの負荷が増加し、人間が疲弊してしまう。慢性的に無理を続けている状態では、ベストパフォーマンスなどできるわけがない。
  • 時にはやることを減らし、余裕を確保する方向にシフトしたほうが良い結果を残せることだってある。自動車を運転する時だって同じ人が休憩無しで連続12時間運転するよりも、きちんと休憩を挟むなり何人かで交代して運転するようにしたほうが安全なのはお分かり頂けるだろう。
  • 時間外労働が常態化している会社や無休での部活動が常態化している学校はまさに慢性的に無理を続けている状態。やることを減らすか、リソースを増やすかして余裕を確保しなければ、そのうちにみんなが過労死したり病気になったりするかもしれない。
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学校の野球部には部活動の問題点が凝縮されている。生徒も教員も無休。部活問題は速やかに完全解決されなければならない。

投稿日:2016年07月07日
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日本の学校には高確率で置かれている野球部(特に高校野球)には、部活動の様々な問題点がこれでもかというくらい凝縮されています。Twitterには「#部活問題のラスボス」というハッシュタグまであります。野球部のことです。

生徒や教師を強制的に動員する。休みが取れない。体罰や無茶苦茶な慣習が未だ根強く残っている。その他の問題も数知れず。まさしく「部活問題のラスボス」の称号にふさわしい部活動、それが野球部だ。

  • 高野連の号令で県内の高校の野球部の全員に県内の高校野球の決勝戦の観戦を命じたり、新任の先生に無休無給の顧問業務を押し付けたり(これは野球部に限らず)、学校によっては生徒に対して部活動への加入義務を課したり(これも野球部に限らず)。生徒も生徒で無休の練習。プロみたいに野球で報酬をもらっているわけでもないのに、野球に全力を投じることを要求(強要)されることも多々ある。野球部は魔境だ。
  • 意味不明な慣習がまかり通ったり、未だに体罰の根絶が出来なかったり。甲子園という名の残酷ショーも今だ健在。朝日新聞などのマスコミとも手を組んで現行のシステムを維持しているだけに余計にたちが悪い。やはり野球部には「部活問題のラスボス」の称号が相応しい。
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自分が困窮しないためには、他人を助けることを放棄せざるを得なくなるのが現実であり、これが難民移民の排斥につながってしまう。自分の生活と他人への配慮の板挟みになって悩む人は少なくないと思う。

投稿日:2016年07月02日
最終更新日:

やってくる難民や移民などと共存はしたいが、それで自分の生活が脅かされるようでは困る…と考える人は、決して少なくはないと思います。高い経済成長が望めない今、自分の生活を守るためには難民や移民を排除し、彼らに分けるパイを制限するしかなくなり、自分の生活と他人への配慮の板挟みになって悩み、自分の生活を守るためにやむを得ず難民や移民を排斥する人がいないとは言い切れないでしょう。

自分の生活を守りながら他人を受け入れていくにはどうすれば良いのか―― この問いへの解が示されない限り、難民や移民に関する問題を解決することは出来ないかもしれない。

  • 経済というパイが拡大を続けていれば、難民や移民などの他人に分け与えるだけの余裕が生まれる。経済成長が続き、パイを分け与えても自分の生活を守れるのであれば、心優しい人は他人にもパイを分け与えるだろう。難民や移民が少なければ、経済成長が鈍化してもまだパイを分け与える余裕もあったかもしれない。
  • しかし現在は高い経済成長が望めなくなり、パイの拡大が停止した(むしろ縮み始めた?)ところに難民や移民がわんさかやってきて、「俺にもそのパイを分けてくれ」と言い出した状態。やってきた他人にパイを分け与えていたら、自分の生活が危うくなるレベルで他人が押し寄せてきたし、パイの拡大も停止した。心優しい人といえども自分の生活を犠牲にする訳にはいかない。家族を養わなければならない人だっている。きちんと主張して自分のパイを確保できなければ、自分と家族の生活が破綻してしまう。
  • かくして自分の生活と他人への配慮で板挟みになり、悩んだ末に自分の生活を守るため、やむを得ず難民や移民を排斥する(数を制限する)ことを主張したり、(消極的に)難民移民の排斥を主張する「極右政党」とカテゴライズされる政党を支持する人もいるのではないか。自分の生活を守りながら他人を受け入れていくにはどうすれば良いのか―― 難しい問題だが、この問いに対する何らかの解が示されない限り、難民移民を排斥しようとする動きを止めることはできないかもしれない。
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どうしても組体操のピラミッドをやりたい場合は、事前に金属製の足場をピラミッド状に建設し、その上に(ピラミッドをやりたい)子どもたちが登ればいい。どこからどう見ても立派なピラミッドだ。

投稿日:2016年06月27日
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組体操問題がニュースを騒がせ、いよいよ組体操に規制を課す自治体も現れました。安全な足場のないピラミッドやタワーの高層化など正気の沙汰ではありません。にも関わらず、この期に及んで高層ピラミッド・タワーをやらかす学校があるらしいです(巨大組体操つづける学校 自治体禁止でも実施、最高段数を記録、頂点から垂れ幕…(内田良) – 個人 – Yahoo!ニュースより)。どうしても高層建築をやりたいのならば、事前に金属製の頑丈な足場を建設してはどうでしょうか。

大人だって2メートル以上での高所作業には足場や命綱の用意が必要なのだから、子供にだって安全装備が必要だ。

  • 大人(労働者)が地上から2メートル以上の場所で作業する場合は、労働安全衛生規則によってきちんとした足場や命綱を用意しなければならないことが定められている。大人だって高所作業をするときには命を守るために足場を使うのだから、子供だって組体操の高層建築をするなら足場が必要(本来ならば組体操の高層建築は直ちに止めるべきなのだが)。
  • ピラミッドやタワーは、高いところに登る子どもたちにも地獄だが、土台となって重さに耐える子どもたちにも地獄だ。ひとたび崩壊すれば上の子供は墜落して骨折するし、下の子供も重さで潰される。学習指導要領にも組体操をやれなどとは一言も書いていないのに。ましてや高層建築物を作れなどとは誰も言っていない。本来ならば、ピラミッドやタワーは廃止しなければならない。
  • それでもなおピラミッドやタワーを続行するというのであれば、上に登る子供の体を支えるのは土台の子供ではなく、頑丈な金属製の足場でなければならない。工事現場で使うような頑丈な足場をピラミッド状に組み上げ、その上に子どもたちが乗って行く。子どもたちは任意参加。地震対策に命綱と安全ヘルメットも必要だし、足場にはきちんと手すりもつけるべき。どこからどう見ても立派でなおかつこれまでよりも安全なピラミッドだ。
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従業員や入社希望者に嘘をつくような会社が信用できるはずがない。求人詐欺や労働基準法違反は会社の信用を傷つける愚行だ。

投稿日:2016年06月22日
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相変わらずのブラック企業(労働基準法違反・雇用契約違反)や求人詐欺が問題になっています。「この程度の理不尽はあって当然」というお方もいますが、労働基準法違反・雇用契約違反も求人詐欺も企業の信用を奈落の底に落とす愚行であり、従業員や入社希望者に対する背信行為です。決して許されてはいけません。

労働基準法違反・雇用契約違反や求人詐欺は従業員や入社希望者に対する背信行為。人一人との契約すらまともに守らない会社がどうして取引先との契約を守ることができるだろうか?

  • 労働基準法違反の企業は当然処罰されなければならない。雇用契約違反をやらかした場合も従業員に対する損害賠償があってしかるべきだろう。労働基準法は「これより劣悪な条件で働かせたらダメですよ」という最低ラインを定めているに過ぎないし、雇用契約は従業員との「この条件であなたを雇用します」という約束だ。これらを破るのは従業員に対する裏切りにほかならない。
  • 求人詐欺もまた入社希望者に対する裏切りである。入社希望者は「会社が公開した労働条件」を信じて入社試験に臨む。しかし、「実際の労働条件」が「会社が公開した労働条件」と食い違っていたら、それは入社希望者を騙していることになる。顧客を騙して契約を好き勝手にする会社を信用できるだろうか?信用できるはずがない。入社希望者を騙して契約を好き勝手にする会社を信用できるだろうか?やっぱり信用できるはずがない。
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同じ物事でも余裕でこなす人もいれば、本人の限界を超えて頑張って何とかする人もいる。だから「どうしてあいつだけ特別な支援をしてもらえるんだろう。ズルい。」と思うことはごく自然なことかもしれない。

投稿日:2016年06月21日
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同じ成果を出すにしても、そのために費やすエネルギーは人によって様々です。ある仕事を超余裕の表情でさくっと瞬殺する(実力がある人)人もいれば、何らかの(特別な)支援を得てなんとかこなす人もいますし、(特別な支援は得られないが)自分のキャパを超えるくらい頑張ればなんとかできてしまう人もいます。そして、特別な支援を得られない立場の人が「なんであの人だけ特別な支援があるんだろう。ズルい。不公平だ。」という感情を抱いてしまうのは、ある意味ごく自然なことであり、頭ごなしに否定できるものではないと思います。

「自分は頑張っているのにあいつは支援をもらって怠けている(ように見える)のが許せない」という感情が発生することはごく自然なこと。「ズルい」という感情を否定してもなんの解決にもならない。

  • 同じ物事をやるために、何らかの事情で特別な支援が必要になる場合がある。「合理的配慮」の考え方を持ち出せば、個々人の事情に応じて(支援する側の負担になり過ぎない範囲で)適切な支援をするのが正解だし、支援を必要としている人に適切な支援をすることができる社会であるべきだと思う。
  • しかしその一方で、「支援無しで本人の限界ギリギリ(あるいは限界突破)で頑張ってなんとか物事をこなしている人」のことも忘れてはいけないと思う。頑張ればなんとかこなせてしまうからより悲惨なことになる。本当は支援が必要でも「できてるんだから別に要らないでしょ」と切り捨てられることも。これでは「自分は頑張っているのにあいつは支援をもらって怠けている(ように見える)のが許せない」という感情が発生するのは当たり前。頭ごなしにその感情を否定しても全く意味が無いどころか余計な対立が更に深刻になってしまう。
  • 支援をする・しないの境界線をどこかで引いてしまうのが対立と悲劇の始まりかもしれない。個々人の能力レベルは階段状に分かれているわけではないのだから。緩やかな坂道の上に個々人の能力レベルがある。だから全ての人に個々人のレベルに合った支援が必要。支援の形態も様々で、人間による支援もあれば、ツールによる支援もある。この文章だってパソコンの助けを借りて書かれているし、面倒な計算の答えを電卓ソフトの力を借りて導き出す人も多いのではないだろうか。こういうのも支援の一形態。
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