伝統や慣習を破壊する勇気も必要だと考える

「伝統」の二文字に魅力を感じる人は少なく無いと思います。確かに尊重されるべき伝統もあるかもしれません。しかし、誰かが強制的に犠牲になるような伝統や慣習は要らないのではないかとも考えます。

伝統のためといえども、他人を強制的に犠牲にすることは許されない。

  • 「伝統」と言われるとどうしても「維持しなければならない」という意識が働いてしまうこともあるかもしれない。だがそれによって他人を強制的に犠牲にしてはいけない。他人を強制的に伝統の犠牲にするのは、他人の自由を奪うこととなってしまう。他人の自由を奪うことは許されていない。
  • 伝統と言っても、他人を強制的に犠牲にする形で維持するのは違うだろう。維持するならば、自由意志で関わる人達によって維持できる形態にしなければならない。時には伝統を破壊する勇気も必要。慣習にしたって同じこと。

伝統によって他人を強制的に犠牲にすることが認められたら、伝統は伝統ではなくなり単なる暴力と化してしまう。

「伝統」の二文字は確かに素晴らしい響きです。「歴史と伝統あるウンタラカンタラ」とかなんとか言えば効果倍増。…しかし、この手のものは昔から続いているだけに、悪い点も昔から継承していることもままあります。慣習も同じようなことがいえます。例えば長時間労働やサービス残業などは、悪い点を継承してしまった例です。学校の部活動もまた昔からの伝統があるところもあるでしょうが、生徒に対して部活動への加入義務を課しているのはいただけません(学習指導要領違反です)。

伝統や慣習を維持するためという理由で他人を強制的に犠牲にすることは認められません。部活動という伝統のために学校の生徒や教師を犠牲にしてはいけないのです。それなのに強制的に部活動をやらせようとするから問題になるのです。伝統や慣習を理由に他人を強制的に犠牲にすることが許されてしまったら、伝統は伝統ではなくなり、単なる暴力に成り下がってしまいます。慣習も同様です。

伝統は強制で維持されるものではない。自由意志での維持が不可能になった時は、伝統をやめる勇気が求められるかもしれない。

伝統の維持は強制力によって行われるものではありません。強制力に頼ってしまうと犠牲者が必ず発生します。人の考え方は一人ひとりで異なるものなので、伝統になじめない人だっています。当たり前のことです。当たり前を無視した結果が強制力による伝統の延命措置であり、それは伝統の破滅への道を早めるだけの愚行に他なりません。伝統と言われるとどうしても維持する方向に思考のバイアスがかかってしまうこともありますが、それでも伝統を破壊する勇気は必要です。現在必要なものは、伝統をやめる勇気なのかもしれません。

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