カテゴリ:現代社会へ思うこと

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無報酬のボランティアの「善意」だけに頼ってはいけない。活動する人にはきちんとした報酬(経済的援助)が必要。参加強制もご法度。

投稿日:2016年06月03日
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日本に住んでいる以上、地震の脅威から逃れることはできません。熊本地震では大きな被害が発生しましたし、東日本大震災の時もやはり甚大な被害がありました。さて、このような震災の後には「ボランティア」の方たちが復興作業を手伝うことになります。皆様もご存知の通り、「ボランティア」は原則として「自主的に無償で」奉仕活動(震災復興の作業など)にあたります。しかし、ボランティアの「善意」だけに頼るのはある意味でとても危険なことなのかもしれません…。

無償の善意だけに頼っての活動には限界がある。活動を継続するためにはきちんとした報酬(経済的援助)が必要。

  • ボランティアは無償で活動する。だからボランティア活動に参加するためには(最低限)ボランティア活動に時間を割いても本人の生活が困窮しないレベルの金銭的余裕と時間的余裕が必要。余裕がある人の「善意」によって支えられている。だが、現在はそのような余裕がなくなってきているのではないかと思う。賃金は伸び悩んでいる(むしろ実質減少?)し、そのくせ税金や社会保険料、学校の授業料などは値上げである。長時間労働問題も未だ根強く残っているし、労基法違反で労働者から搾取しまくっているブラック企業もある。
  • そのような中で「無償」の善意だけに頼って活動を維持しようとすれば、活動の担い手が生活困窮者になりかねない(その前に離脱するとは思うが)。そうならないためには、活動の担い手にきちんとした報酬(経済的援助)が必要。「無償の善意」にばかり頼るのは正常な経済活動と個人の生活を破壊してしまうおそれがある。よって、活動にはそれなりの対価が必要。
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「(同期型)コミュニケーション能力」偏重の社会では精神疾患患者や自殺者を大量生産してしまうし、真の多様性の担保は不可能である!

投稿日:2016年05月31日
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近年何かと重視される(と言うか神聖視される)「コミュニケーション能力」ですが、あまりにも(同期型)コミュニケーション能力偏重な社会だとどうにも過ごしにくいのではないかとも思います。

何かにつけて「(同期型)コミュニケーション力が云々」と言われる息苦しい社会では真の多様性は担保できない

  • 何かにつけて「コミュニケーション力が云々」だの何だのと言われるが、直接会っての会話や電話だけがコミュニケーションではない。メールなどの文書のやり取りだって立派なコミュニケーションである。「会話は苦手だけどメールは得意」という人は(一般的には)「コミュニケーション障害」などと言われかねないが、メールだってコミュニケーションの一形態であるため、こういう人も「コミュニケーション力が高い」と言えるのではないか?
  • 現代社会で要求されている「コミュニケーション力」は、とにかく短い時間で何らかのレスポンスを返す能力だと思う。深く考えずにすぐに応答してとにかく沈黙タイムを作らない能力。相手が話しかけてきたらすぐに何か答えを返すことが求められる。滑舌よく、明るく大きな声で、明るい表情を作って。でもこれは誰もができることではない。そしてそれがコミュニケーション能力の全てということはできない。決して。文書の交換だって立派なコミュニケーションだ。
  • コミュニケーションにも様々な形態があること、人によって向き不向きがあることはもっと知るべきではないかと思う。じっくり考えてからきちんとした答えを返す力も大事なはず。じっくり考えるだけの時間的猶予が殆ど無い同期型コミュニケーション(会話、電話など)の能力が全員に要求される(メール等の非同期型コミュニケーションの能力が軽視される)状態が息苦しい現代社会を作り出してしまったのかもしれない。同期型コミュニケーションが苦手な人にとっても過ごしやすい社会を作ることが、多様性の担保に繋がる。
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私としては日本の学校で行われている部活動は廃止すべきであると考える。一部の問題を早期解決するために妥協はするかもしれないが、譲れない一線は死守する。私は部活廃止論者であることをここに宣言する。

投稿日:2016年05月29日
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私は部活廃止論者です。部活問題を完全解決するためには、諸悪の根源たる現在の部活動システムを徹底破壊しなければならないと考えています。とはいえ、生徒に対する加入強制と教員に対する顧問業務強制の問題を解決できるのであれば、一旦はそこで妥協し、まずは生徒と教員(及びその家族)が当然保持すべきである自由と余裕を奪還します。それから改めて部活動の完全廃止を目指します。問題の早期解決のために妥協することはありますが、譲れない一線は死守します。放課後のスポーツ活動や文化活動は、学校から切り離すべきです。

生徒と教員(及びその家族)が当然保持すべきである自由と余裕のためならば一時的に妥協はする。だが、最終目標は部活問題の完全解決。そのために必要なのは現行の部活動システムの完全廃止。

  • 長きにわたって続けられてきた現行の部活動システムは、生徒にも教員にもその家族にも過剰な負担を押し付けている。学校や地域によっては生徒も教員も強制的に部活に縛り付けられるし、家族も部活の後方支援に動員されることがある。加入そのものが任意でも、内申点の絡みで仕方なく活動をしている事例もある。競技に関する知識がない素人顧問が部員の面倒を見ることになってしまって怪我のリスクが高まることもある。部活問題の全ての元凶は部活動だ。現行の部活動システムを廃止してしまえば、部活問題は解決できる。
  • 部活問題の中でもとりわけ深刻な「生徒に対する加入強制」「教員に対する無賃(or最低賃金以下)での顧問業務の強制」の問題を完全かつ永久に解決できるというのであれば、まずはこの2つの問題がもう二度と復活しないように徹底破壊する。生徒及び教員が「部活動をしない」という選択を完全に自由にできるようにするのが先決だから。そのためならばある程度の妥協はする。しかしそこで戦いを終えることはできない。最終目標はあくまでも部活問題の完全解決。そのためには部活動の廃止が必要。
  • 現行の部活動システムは生徒を強制加入で苦しめ、教員を顧問業務で苦しめ、家族には後方支援業務を押し付けた上で一家団欒の時間を剥奪。おまけに民間のクラブチームや習い事の先生などの仕事も奪い取る。部活動に時間を奪われ、これまで続けてきた習い事をやめざるを得なくなる生徒もいる。民業圧迫だ。この他にも部活動が原因となる問題はある(これらを総称して「部活問題」と呼ぶ)。部活問題を解決するためには、やはり現行の部活動システムを完全廃止しなければならない。私は部活廃止論者である。部活動滅ぶべし。
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高校野球とかの大会を見て「あの大会のためにどれほどの人の生活が犠牲になっているのだろうか」と考えてしまうのは私だけではないと信じたい。

投稿日:2016年05月26日
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部活動が休日返上で行われていることがある(特に運動系・音楽系)事を知ってしまうと、高校野球などに代表される(学校の部活動が出場を目指す)大会のためにどれほどの人の生活が犠牲になっているのかが気になってしまいます。

大会の影には数多の生徒や教員(及びその家族)の犠牲がある。高校野球はまさに残酷ショーだ。各種大会と部活動(ひいては学校)を切り離さなければならない。

  • 高校野球などの大会ともなると学校の部活動で休日返上の長時間練習が行われることが多々ある。当然ながら生徒の生活は犠牲になるし、部活の面倒を見る教員の生活もまた犠牲になる。彼らの家族もまた一家団欒の時間を奪われる(&部活動の後方支援に動員される)という点では犠牲者だ。ごくわずかしか無い大会出場権のために終わりの見えない軍拡競争が続く。地獄である。ここに部活動加入強制システム(つまり徴兵制)が組み合わされば言葉では到底言い表せない地獄絵図となるだろう。
  • この地獄に終止符を打つためには、部活動と各種大会の両方を完全廃止し、学校が各種大会(甲子園とか吹奏楽コンクールとか)と関わりを持つことを一切禁止する必要がある。徹底的な武装解除と戦場の解消により、生徒・教員及びその家族は自由と余裕を取り戻すことができるはずだ。
  • その上でなお大会の継続を望むのであれば、それは学校とは関係ない場所で行われるべきであろう(クラブチームとか地域の同好会とか)。当然ながら参加不参加は完全に個人の意志に委ね、暗黙のものも含めて参加強制が行われることが絶対に無いようにしなければならない。
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学校体育の連帯責任システムや集団競技・勝利至上主義は運動嫌い・体育嫌いを量産し、体育・運動への忌避感ばかり高めてしまう。百害あって一利なし。

投稿日:2016年05月24日
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日本の学校における体育の授業は、運動が苦手な生徒の肉体と精神を容赦なく殺戮し、運動嫌い・体育嫌いの生徒を大量生産するために存在しているとしか思えません。連帯責任滅ぶべし。集団競技と勝利至上主義を全員参加の体育の授業に持ち込む必要はありません。

連帯責任や集団競技は生徒に恐怖と不和をもたらし、体育・運動への忌避感を高めてしまう。日本の学校体育は軍事教練の一環なのか?

  • 学校体育ではまれによくある連帯責任システム(声が出ていなかったら全員に集合などをやり直しさせる、など)や集団競技+連帯責任システムのコンボ(試合に負けたチームの全員が用具の後片付けをさせられたりグラウンド○周走らされたり、など。勝利至上主義を内包)は生徒に恐怖を抱かせ、運動が苦手な人が迫害される原因である。連帯責任は諸悪の根源。
  • 体育の授業や体育祭などが連帯責任と勝利至上主義で染まった結果、運動が苦手な人はひたすら迫害を受けざるを得ない状況に追い込まれた。かといって体育の授業をすっぽかすことも出来ない(出席率が悪いと単位落としリスクが発生→留年リスク発生)ため、運動が苦手な人は半強制的に死の運命が待ち受けている戦場に赴くことになる。これでは体育嫌いを量産してしまい、それが運動嫌いの量産にも繋がる。いじめ発生→不登校・退学となってしまう可能性さえある。よって、現在の体育の授業は百害あって一利なし。
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時間あたりの生産性が上がったら、それに応じて時給も上がらなければならない。労働時間の短縮と賃上げ、そして完全週休3日制の実現を。

投稿日:2016年05月23日
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同じ時間でもより良い仕事ができる人には、より良い給料を支払わなければならないはずです。時間あたりの生産性が向上したならば、それに応じて時給も引き上げる必要があります。

労働者がこなした仕事の量と質を可視化して個人の成果がわかるようにした上で、良い仕事をする人には良い給料を出さなければならない。

  • 同じ時間でもより良い仕事をした人には、より良い給料を出さなければならないはずだ。時給だけで給与計算を行ってしまうと、「ダラダラ働いて長時間残業する人」ばかりが有利になってしまい、「短時間で高い成果を出せる有能な人」のやる気を大いに削いでしまう。個人が出した成果がはっきりわかるようなシステムを導入し、「短時間で高い成果を出せる有能な人」にはより良い給料を出せるようにするべき。
  • 時間あたりの生産性が上がったら、その分時間あたりの給料も上げなければならない。長時間ダラダラ残業して仕事をする時代はとっくの昔に終わっていなければならない。効率的に働いて短い時間で仕事を済ませる。仕事が終わった人に別の仕事をさせるならば、その分の給料もきちんと追加しなければならない。「仕事を早く済ませたら、わんこそばのごとく別の仕事をやらされた。なのに給料は追加されてない。」なんてことをするから短時間で仕事を済ませようと言うやる気が削がれる。仕事を追加するなら給料も追加しなければならない。給料を追加できないなら休みの追加(と副業禁止規定の完全廃止・副業の完全自由化)で代替してもよいだろう。
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