「限界まで努力した人だけが援助を受けられる」というシステムは構築も運用も出来ない。そんなことをすれば再起不可能なレベルで消耗する人や自殺する人が出てきてしまう。
投稿日:2016年10月14日
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ある人の努力をただひとつの(誰が測定しても同じ値になる)基準で測定することは出来ない。どこまで努力すれば「限界」なのかが正確にわからない以上、「限界まで努力した人だけが援助を受けられる」というシステムは成立しない。
- ある人が行った努力をどのように捉えるかは人それぞれである。同じ努力でもある人から見れば「ものすごく努力したんだな」と考えるかもしれないし、別の人は「全然努力してないぜこの怠け者は」と考えるかもしれない。努力の度合いをきちんと規格が決められている(誰が図っても同じものならば同じ値になる)ものさしで測ることは出来ない。ものさしがないから。
- 努力の度合いを正確かつ公平に測定することは不可能である。これでは「限界まで努力しろ」と言われても、果たしてどこが限界なのかを他人が知ることは出来ない。もしかしたら自分でさえも分からないかもしれない。よって「限界まで努力した人だけが援助を受けられる」というシステムは構築・運用共に不可能である。
- 「限界まで努力した人だけが援助を受けられる」というシステムが構築されたらば、再起不可能なレベルで消耗する人やすべてを諦めて自殺する人が出てきてしまうだろう。努力の度合いにかかわらず、支援が必要な全ての人に必要な支援がなされるシステムを構築する必要があると考える。
ある人の努力度を、他人が正確かつ公平に測定することは出来ない。よって、ある人の努力の限界点を他人が知ることは出来ない。
ある人が何か(例:仕事、外国語の習得など)で努力しているとします。さて、その人がどれくらいの努力をしているのかを数値化することは出来るでしょうか?答えはノーです。
ドラゴンボールの世界であれば戦闘力をスカウターで測定すれば済みそうなものですが、あいにく現実世界では努力度を正確に測定できるスカウターは開発されていません。努力していることにつぎ込んだ時間で努力度を測定するという手もあるかもしれませんが、この手法では「定時に帰宅するために努力や工夫をして短時間で仕事を終わらせる人」の正確な努力度を測定できません。
学生みたく定期テストで測定するという手もありますが、これまた得点化されない部分の努力度が無視されてしまいます。努力が素直に結果に結びつく人もいればそうでない人もいますし、怠けていてもそれなりに結果を出せる人もいます。また、一見怠けているように見えても実は見えないところでものすごく努力している可能性もあります。
ある人の努力度を正確かつ公平に測定できる(誰が測定しても同じ努力度なら同じ値になる)都合のいいものさしは存在しません。「限界まで努力しろ」と言ったところで、そもそもその人の限界がどこにあるのか、他人が知ることは不可能なのです。また、自分自身が限界を分かっていない可能性も否定できません。
「限界まで努力した人だけが援助を受けられる」というシステムは構築も運用も出来ない。支援が必要な全ての人に必要な支援が行われるシステムが必要。
ある人の努力の限界を正確かつ公平に測定することが出来ない以上、「限界まで努力した人だけが援助を受けられる」というシステムは構築も運用もできません。このシステムを運用する上ではある人の努力の限界点と現時点で行っている努力の度合いを正確に測定するものさしが必要不可欠ですが、そんなものは存在しません。有りもしないものさしで何かを測定することは出来ないでしょう。
その辺をガン無視して「限界まで努力した人だけが援助を受けられる」システムが構築された日には、限界まで心身を酷使し再起不可能なレベルで消耗する人や、「もう人生どうでもいいや」と全てを諦め自殺を図る人が出てくる恐れがあります。また、ブラック企業が社員に対して「限界まで努力した人にしか休みはやらん」みたいなことを言い放ち、日本において貴重な人材という資源を使い捨てにする可能性もあります。
地下資源が乏しい日本において、人材は貴重な資源です。日本では学費がべらぼうに高いことはよく知られていますが、家庭や国家が大金をつぎ込んで育成した人材をものの数年で使い捨てにするというのは馬鹿馬鹿しい話です。支援が必要な全ての人に必要な支援が行われるシステムを構築した方が、人材を無駄なく活用でき、人々に安心感を与え、社会に活力を与えるのではないでしょうか。
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