日本の学校における体育教育の目的は何なのか?体力の向上が目的なら、ひたすら個人のペースでゆっくりトレーニングしていたほうが良いのでは?

この記事をお読みになっている皆様は、学校で行われた「体育」の授業にどのような思いを抱いているでしょうか?私は「体育」の時間が大嫌いでした。まあ英語とかも嫌いでしたが、体育に比べれば英語の授業でわけのワカラン宇宙人の言語を読んでたほうが100倍マシです。

体育の目的は何なのか?子供の体力向上か?それともスクールカースト形成と精神論の暴力の押し付けか?

  • 学習指導要領で定められた体育の目標には「明るく豊かな生活を営む態度を育てる」とあるが、運動が苦手な人を公開処刑してスクールカースト形成装置と化した日本の体育の授業ではこの目標を達成できるわけがない。「体力の向上」なども目標に定められているが、体育が全体主義と精神論に染まっている限りは何一つ目標を達成することなどできない。
  • 体育の授業から全体主義と精神論を排除し、ひたすら自分のペースで科学的に有効なやり方を用いて筋トレやジョギングなどを行う授業に転換するという手もある。これならば「体力の向上」の目標を確実に達成できる。「みんなで」同じレベルを目指せと言われても無理。個人プレーの科学的体育への転換。

運動が苦手な人を公開処刑し、スクールカースト形成装置に堕落した日本の体育

そもそも体育の授業はどのような目的で行われているのでしょうか?

第1 目標 心と体を一体としてとらえ,適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して,生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り,楽しく明るい生活を営む態度を育てる。 小学校学習指導要領 第2章 各教科 第9節 体育:文部科学省
第1 目標 心と体を一体としてとらえ,運動や健康・安全についての理解と運動の合理的な実践を通して,生涯にわたって運動に親しむ資質や能力を育てるとともに健康の保持増進のための実践力の育成と体力の向上を図り,明るく豊かな生活を営む態度を育てる。 中学校学習指導要領 第2章 各教科 第7節 保健体育:文部科学省
…小中学校とも「健康の保持増進」のための実践力の育成と「体力の向上」を図るとしています。その上で「明るく豊かな生活を営む態度を育てる」とありますが、体育の授業が「明るく豊かな生活を営む態度を育てる」ものであるかは疑問です。

体育の授業においては、とにかく「集団で行動すること」が尊ばれ、「和を乱すこと」は嫌われる傾向にあります。…そのまんま日本社会のような気がしますが、おそらく気のせいでしょう。みんなで大声で挨拶し、みんなでグラウンドを走って、みんなで準備運動をして(大声を出しながら)、みんなで実技をして、最後にまたみんなで大声で挨拶。とにかく「みんなで」やります。まあ実技の部分に関して言えば種目によって「みんなで」の度合いは変わってきますが。しかし、「みんなで」やると言ったところで技能レベルは人によって大きく異なります。アタリマエのことです。

しかしその当たり前によって、体育の授業で軋轢が生じます。集団競技だと特に。例えば野球やサッカーなどでチーム分けをする時などは、「運動(その種目)が得意な人」と「運動(その種目)が苦手な人」の間に大きな溝が生じます。団体競技においては一人のミスが全体に響くというどうしようもない現実があるので、軋轢が生じるのもまた当たり前です。「運動(その種目)が得意な人」が「運動(その種目)が苦手な人」を虐げる構造です。ここで「スクールカースト」が発生します。「運動(その種目)が得意な人」がスクールカーストの上位に君臨し、「運動(その種目)が苦手な人」はスクールカーストの底辺に追いやられます(そしていじめられます)。そしてスクールカーストは学校にいる限りずっとついて回るので、「運動(その種目)が苦手な人」は絶望と屈辱しかない毎日を過ごすことになります(たとえ勉強ができてもスクールカーストをひっくり返すことはできなかったりする)。

そして、体育の授業では「みんな」が見ている前で実技をすることになります。否応なしに自分の技能レベルを晒すことになるので、「運動(その種目)が苦手な人」は運動(その種目)が苦手なことを強制的に公開させられます。まさに公開処刑。数学や英語などではできなくてもできないことは晒されないというのに。かくして体育の出来だけでスクールカーストが決定されるのです。日本の学校における体育の授業はスクールカースト形成装置です。スクールカースト形成装置が「明るく豊かな生活を営む態度を育てる」ことなどできるわけがありません。

体育嫌いの心の叫び

私は体育の授業が大嫌いです。何かにつけて団体行動・連帯責任を要求され、うまくできなければ先生や別の生徒に怒られる。団体競技(サッカーとか野球とか)のチーム分けで体育会系(勝利至上主義者)と当たればほぼ確実に迫害される。持久走はノルマを課され、持久走大会で最後らへんにゴールすれば生暖かい目線でお出迎え。でもこれが生き地獄。様々なスポーツをやるけれどもルール解説は殆ど無し。スポーツのルールは座学で教わるものではないと。…体育で扱うスポーツのルールは全て一般常識、知っているのが当たり前、知らない人は頭がおかしいということですか。…そうですか。

体育無くなれ!!爆発四散しろ!!少なくとも必修科目からは退場しろ!!体育によってどれだけの生徒が血涙を流すことを余儀なくされたと思ってるのか!?体育は完全にスクールカースト形成装置だ!!いじめを生み出す悪魔の教科だ!!苦手な人にはさらに苦手意識を持たせて運動嫌いを地獄に追い込んで何がしたいんだ!?こちとら赤点回避のためだけに精神をかなぐり犠牲にしながら地獄の体育に出席したんだ!!留年しないためだけに赴く生き地獄が体育だ!!どうしてみんなが同じ目標を目指す必要があるのか!?強制参加で集団行動をさせることに何の意味がある?クラス対抗長縄大会で跳べた回数を競わせることに何の意味がある?あれこそ運動苦手な人を炙りだした上で公開処刑して体育を絶望の監獄に変える悪魔だ!!運動が苦手な人は集団の足を引っ張ることになるからどうしたって迫害されるんだ!!この手の全員強制参加型団体競技イベントで運動苦手な人が迫害されずに済む集団はそれだけでも10年に1度あるかないかの奇跡だ!!だが殆どの場合は運動苦手な人は全員強制参加型団体競技イベントで絶望と屈辱しか感じない!!集団行動無くなれ!!長縄は爆発四散しろ!!ムカデ競争も退場しろ!!

…はい、頭が狂ってることは重々承知です。でも体育には数学や英語などといった主要教科や、美術や書道などの技能教科との決定的な違いがあるのです。体育は「団体行動を強制される・誰かの失敗がチームメイトにも影響する」という点です。例えば数学が壊滅的にできなくても、それで他人が困るわけではありません。また、数学ができないことで公開処刑されることもなかなかありません。隠そうと思えばできないことを隠せます。美術なんかでもそうです。自分ができなくても、困るのは自分だけです。しかし、体育の場合は団体行動を強制されます。自分ができないことによって、チーム全体にも迷惑がかかってしまう構造です。これが運動苦手な人を迫害する空気を生み出す諸悪の根源です。そして体育ができないことを隠すこともできず、容赦なく公開処刑されます。気分は死刑囚。体育から団体行動的要素を完全削除するだけでも、いじめは確実に何割か減るはずです。

私も体育の時間は地獄としか思えませんでした(そうでなければこんな記事も書きませんしそもそもこのブログを立ち上げもしなかったかもしれません)。集団行動にはなじめない、全種目が壊滅だからチーム競技では必ずチームの足を引っ張る、コミュ障、個人主義な人間が体育の授業に馴染めるわけもなく。なんとか成績は5段階評定で3を確保しましたが、これとて筆記試験と出席日数とお情けだけで稼いだものであることは明白です。チーム競技(バスケットボール)のときに私含めてクラス内で低スキルな人たちのみでチーム(チーム名「目くそ鼻くそチーム」 友人が命名)を構成した時は、他チームとの試合で勝てなくてもそれなりに幸せな時間でした。みんな下手くそ(だが思いやりはあるメンバー)なので下手くそなやつを迫害するようなことはありません。迫害されないだけでも万々歳です。あと、持久走みたいな個人競技それ自体はそこまで嫌いでもなかったように思います。いくら自分ができなくても他人に迷惑をかけることはないので、集団競技と比べれば1000倍マシです。5段階評定で3を維持できる程度に無理せずやっとけばいいんです。最悪でも単位を貰えればそれで良し。他人を気にすることもありません。どうして「体育の授業」のおかげでスポーツが嫌いになってしまうのだろう – YU@Kの不定期村でも体育の問題点について語られていますが、やはり体育によって精神がねじ曲げられてしまう人は存在します。やってもやんなくても地獄。それが体育の実態です。

身体能力の向上が体育の目的ならば、いっそのこと体育の時間をひたすら自分のペースで筋トレする時間に変更するのも一つの手段か!?

私の心の叫びや体験談はさておき、運動嫌いをますます運動嫌いにした上で学校生活そのものをも破壊しかねない体育の授業は、早急に改善しなければなりません。体育の目的に『「体力の向上」を図る』というものがあるのですから、いっそのことひたすら個人プレーで体力の向上を図るようにするのも手です。体育の文字を分解すれば「体を育む」になることですし。科学的に有効なやり方でひたすら筋トレを行う(もちろん自分にあったペースで)とか。ひたすらウォーキングやジョギングをするとか(もちろん科学的に有効なやり方で自分にあったペースで行う)。

精神論と全体主義を徹底的に排除し、自分のペースで自分に合った科学的に有効なやり方で体力の向上を図れば、『「体力の向上」を図る』という目標は確実に達成できます。個人個人で体力レベルも種目ごとの技能レベルも違うのにみんなに合わせてやれって方がそもそも無理がありすぎる話です。体育の授業はひたすら個人プレーで科学的に有効な方法を用いて体力の向上を目指す方向に舵を切るべきだと考えます。

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