「競技のスポーツ」と「教育・楽しみの運動」は厳格に切り分けなければならない。この2つを無理やり混ぜた結果、部活問題が生まれたとも考えられる。
投稿日:2017年01月02日
最終更新日:
もくじ
- 「競技」と「教育・楽しみ」の違いについて定義する
- 運動部が「教育・楽しみ」中心から「競技」絶対主義へと変質した経緯
- 「競技」と「教育・楽しみ」を学校内で共存させることは難しい。部活全廃は出来なくとも、せめて「競技」の部分だけは学校から切り出さねばならない。
「競技」と「教育・楽しみ」の違いについて定義する
本記事で用いる「『競技』のスポーツ」と「『教育・楽しみ』の運動」の違いについて簡単に説明します。
「『競技』のスポーツ」では、重要なものは「記録」「成績」です。とにかく短時間で決められた距離を走りきれる人が偉いですし、少しでも順位を上げることを重視します。そのために厳しい練習も行いますし、中には成長してプロになる人もいます。運動こそ本業!というわけです。部活動の実績を全面に押し出す高校なんかでは、「競技」絶対主義に染まった運動部も多いかと思われます。但し、必ずしも科学的に正しいとされているやり方でトレーニングしているとは限らないという点で、真のプロスポーツ選手とは異なります。
一方で、「『教育・楽しみ』の運動」で大事にすることは「成長」「楽しむこと」です。運動はあくまでも脇役であるか、たくさんある大事なことのうちの1つくらいという位置づけであり、競技組のガチ勢がやるような厳しい練習はしません。たとえ成績が悪くとも、楽しむことができれば目的はとりあえず達成です。もちろん休みを競技に全振りしろなどとはいいません。
運動部が「教育・楽しみ」中心から「競技」絶対主義へと変質した経緯
運動部が「教育・楽しみ」中心から「競技」絶対主義へと変質した経緯については、運動部活動に全国大会がなかった頃(内田良) – 個人 – Yahoo!ニュースで詳述されているので概要だけ説明することにします。
戦後日本は民主主義の国になり、学校教育も民主主義に相応しいものに変えることになりました。スポーツ活動についても「生徒の自主性」を重んじることになり、学習指導要領にも次の文言が盛り込まれました。
第4 指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項
学習指導要領総則:文部科学省
(13) 生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,地域や学校の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。
そして、1948年に文部省は学校の対外試合について、以下のような規制をかけました。
- 小学校…校内競技のみ
- 中学校…日帰りで可能な範囲なら対外試合OK(但し校内競技を重視)
- (新制)高校…全国大会もOK(但し地方大会を重視)
…しかし、1952年のヘルシンキオリンピックでの日本選手団の成績は芳しくなく、1964年には東京オリンピックも行われる事になったという状況下で、対外試合の規制も緩められていくことになりました。文部省も後の通達で正式に対外試合の規制を緩め、学校部活動にも「競技」絶対主義が持ち込まれてしまったのです。これが現在のブラック部活につながっていきます。
「競技」と「教育・楽しみ」を学校内で共存させることは難しい。部活全廃は出来なくとも、せめて「競技」の部分だけは学校から切り出さねばならない。
現行の部活動システムは、もはや維持不可能です。生徒も教員もブラック部活で身体を蝕まれており、無理やり現行のシステムを続行したところで得られるものはありません。「いくら活動しても残業代が出ない」だの、「『自主的な活動』なのに加入を強制される」などといった法律違反な部分を1日でも1秒でも早く是正することは絶対に必要です。それが出来ないというのであれば、現行の部活動システムの完全廃止あるのみです。
その上で考えなければならないのが、「学校内スポーツを『競技』の論理で運営するのか、『教育・楽しみ』の論理で運営するのか」です。体育の授業や運動部を『競技』の場とするのか、『教育・楽しみ』の場とするのか、という問題ですが、私としては学校内スポーツは『教育・楽しみ』の論理で運営されるべきであると考えます。
義務教育は言うに及ばず、高校についても「子どもなら普通は学校に行くものだ」という社会的圧力があるため、学校内スポーツ(特に授業で行われるもの)はある一定の年齢層の人に対する強制性を帯びています(但し部活動はあくまでも『自主的な活動』であり、強制されるようなことがあってはなりません)。
学校にいるすべての生徒が将来スポーツ選手やスポーツインストラクター、体育教師になるわけではありません。むしろそうならない生徒が大多数です。彼らに必要なのは健康寿命を伸ばすための運動やストレス発散の手段などであり、スポーツにリソースを一極集中するわけではありません。
授業や部活動に『競技』の論理が持ち込まれてしまうと、スポーツを本業としない大多数の生徒は無駄な苦痛を味わい、自分の得意分野に割くべきリソースを無意味なことに奪われてしまうのです。このような事態は避けねばなりませんし、そのためには学校内スポーツから『競技』の論理を駆逐せねばならないのです。
『競技』に取り組む人については、学校外の専門家に相応の対価を払って教えを請えばよいはずです。ブラック部活問題を解決するためにも、体育の授業で無駄に苦痛を味わう人を減らすためにも、「競技のスポーツ」の場と「教育・楽しみの運動」の場は厳格に切り分け、学校内スポーツは健康寿命を伸ばすことを最終目標とする『教育・楽しみ』の論理で運営されるべきであると考えます。