同じ物事でも余裕でこなす人もいれば、本人の限界を超えて頑張って何とかする人もいる。だから「どうしてあいつだけ特別な支援をしてもらえるんだろう。ズルい。」と思うことはごく自然なことかもしれない。
投稿日:2016年06月21日
最終更新日:
「自分は頑張っているのにあいつは支援をもらって怠けている(ように見える)のが許せない」という感情が発生することはごく自然なこと。「ズルい」という感情を否定してもなんの解決にもならない。
- 同じ物事をやるために、何らかの事情で特別な支援が必要になる場合がある。「合理的配慮」の考え方を持ち出せば、個々人の事情に応じて(支援する側の負担になり過ぎない範囲で)適切な支援をするのが正解だし、支援を必要としている人に適切な支援をすることができる社会であるべきだと思う。
- しかしその一方で、「支援無しで本人の限界ギリギリ(あるいは限界突破)で頑張ってなんとか物事をこなしている人」のことも忘れてはいけないと思う。頑張ればなんとかこなせてしまうからより悲惨なことになる。本当は支援が必要でも「できてるんだから別に要らないでしょ」と切り捨てられることも。これでは「自分は頑張っているのにあいつは支援をもらって怠けている(ように見える)のが許せない」という感情が発生するのは当たり前。頭ごなしにその感情を否定しても全く意味が無いどころか余計な対立が更に深刻になってしまう。
- 支援をする・しないの境界線をどこかで引いてしまうのが対立と悲劇の始まりかもしれない。個々人の能力レベルは階段状に分かれているわけではないのだから。緩やかな坂道の上に個々人の能力レベルがある。だから全ての人に個々人のレベルに合った支援が必要。支援の形態も様々で、人間による支援もあれば、ツールによる支援もある。この文章だってパソコンの助けを借りて書かれているし、面倒な計算の答えを電卓ソフトの力を借りて導き出す人も多いのではないだろうか。こういうのも支援の一形態。
ある一線で支援ツールの使用の可否を決定してしまうと、不公平が生じてしまう。「支援無しで本人の限界ギリギリ(あるいは限界突破)で頑張ってなんとか物事をこなしている人」にだって支援が必要だ。
例えば、小学校であるクラスの全員に「3日後までに計算ドリルのこのページの問題をノートに書き写してやってきなさい」という宿題が出たとします。しかしそのクラスには「どうしても問題を書き写すことが苦手な子」がいました。そこで先生はその子に対して計算ドリルの問題をコピーしたプリントを与え、「このプリントに答えを書けばいいからね」と言いました。一方で、同じクラスには「問題の書き写しは苦手だけど限界突破で努力してたくさんの時間をかければなんとかできてしまう子」もいました。その子は先生から見ると「ちょっと遅いけどみんなと同じようにできている」ように見えるので、その子はずっと支援無しで放置されたままでした…。
この例では、「問題を書き写す」という障害に対して「プリントの配布」という支援で対応しました。「計算力を身につける」という目的は達成できるので、このような配慮はあってもいいと思います。しかし、「問題を書き写すことが苦手」と一口に言っても、苦手度レベルは様々です。「限界突破で努力すればなんとかみんなについていける」ようなレベルの人もいれば、「どうあがいても支援無しでは追いつけない」人もいるでしょう。そして、個々人のレベルに合わせてすべての人に適切なレベルの支援が提供されれば、「限界突破で努力すればなんとかみんなについていける」人も「どうあがいても支援無しでは追いつけない」人も適切な支援のもとで無理なく本来の力を発揮できます。
「どうあがいても支援無しでは追いつけない」人は、いわゆる「障害者」にカテゴライズされて特別な支援が提供されることもそれなりにあるのではないでしょうか(実態とかけ離れていたら申し訳ありません)。一方で、先の例でも上げたように「限界突破で努力すればなんとかみんなについていける」人は往々にして必要な支援を得られずに放置されがちです。本人の事情を知らない人からしてみれば「ちゃんとついてきている」ように見えるので、本当は本人のレベルに合わせた支援が必要でも「ちゃんと遅れずについてこれるんだから支援はなくてもいいよね」となってしまいます。そして支援無しで放置され、「限界突破で努力すればなんとかみんなについていける」人はずっと限界突破で頑張ることを余儀なくされます。
そして、このときに「どうして自分は支援なしでも頑張ってるのにあの人だけ特別な支援があるんだろう。ズルい。不公平だ。」という感情が生じるのはある意味で当たり前のことです。「自分は人並みに追いつくためにたくさんの代償を支払っているのに、どうしてあの人だけ特別待遇で頑張らないことが許されるんだろう…ズルい。」と思うのも無理はありません。この感情を頭ごなしに否定したところで、「この人は一体何を言っているんだ。あの人が特別待遇を許されるなら自分にも特別待遇があってもいいじゃないか。世界はなんて理不尽なんだ!!」となってしまい、問題は何も解決されず、無益な対立が深まってしまうだけです。
この問題を解決するためには、支援のあるなしをある一線で区切ることをやめ、個々人の事情に合わせて適切なレベルの支援が得られるようにする必要があると思います。「限界突破で努力すればなんとかみんなについていける」は、本来なら必要な支援を得られずに放置され、要求される到達レベル(人並み)と自分の本来の実力とのギャップに苦しめられてきたのではないでしょうか。要求される到達レベル(人並み)をなんとか達成するために多くの代償を支払い、しかしそれによってなにか得るものがあったわけでもなく、ひたすら苦しんできたのではないでしょうか。限界を超えて頑張っている彼らにもそれなりの支援があって然るべきではないのでしょうか。
現代は誰もが何かしらのツールや人間の支援を受けて生きている。すべての人に個々人のレベルに合った支援を!!
現代社会において、何かしらのツールや人間の支援無しで生きている人はなかなかいないと思います。現に私もこの文章はPCの力を借りて執筆し、インターネットを利用して公開しています。読者の皆様もこの文章を読んでいる地点でおそらくインターネット接続が可能なPCやスマホなどを利用していることでしょう。PCやスマホと言った情報機器の発達は、人間の活動を支援するツールの発達です。インターネットを使えば世界の情報に触れることができますし、文字を打ち込んで保存したり編集したりすることもできます。カメラ付きスマホで写真をとってメモ代わりにするという手もあるでしょう。これもある意味では支援の形の多様化です。
せっかく支援ツールの機能が拡張されているのですから、これを利用しない手はありません。これまではリソースの問題もあって「どうあがいても支援無しでは追いつけない」人だけが支援を得ることができたのかもしれませんが、これからは「限界突破で努力すればなんとかみんなについていける」人も含めてすべての人が個々人に必要な支援を得られるようなシステムが必要なのかもしれません。社会はバリアフリーの次のステップに進み、ユニバーサルデザインを目指すべきではないでしょうか。
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