「お前らより苦しい人がいる(から我慢しろ)」という「犠牲の累進性」。自分より苦しい人がいたとしても、苦しいものは苦しい。
投稿日:2016年09月04日
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「お前らより苦しい人がいる(から我慢しろ)」という理屈で苦しんでいる人を黙らせても、問題は解決されない。日本には言論の自由があるのだから、生活が苦しい時に「苦しい」と叫ぶことは許されなければならない。
- 誰かが「苦しい」と言った時、「お前らより苦しい人がいる(から我慢しろ)」と言い放って苦しんでいる人を黙らせようとする人がいる。だがそれにより、誰が「苦しい」と言っても、その人よりも苦しい人がいる限り、「苦しい」という声を上げることができなくなってしまう。そして、問題は解決されない。
- 「他にも大変な人がいる」という理屈で現に苦しんでいる人の口を封じ、問題から目をそらすことを強制した上で当人の困難をそのまま呑ませる。こうしたやり方や雰囲気には、「犠牲の累進性」という名前が与えられている。日本には言論の自由があるのだから、本人が苦しいと思うなら、率直に「苦しい」と言えばいい。貧困バッシングで得をするのは、貧困対策を真面目にしない国家と悪徳政治家である。
貧困に苦しんでいる人を更に追い込んでしまう「犠牲の累進性」。苦しさは人それぞれなのに。
日本には言論の自由がありますから、生活が苦しいのならばどこかで「生活が苦しい」と発言できますし、それを禁止することは出来ません。しかし現実には、「苦しい」と言った人に対して、「お前よりも苦しんでいる人もいるんだぞ(だから我慢しろ)」と放言し、これ以上「苦しい」と言えない雰囲気を作り出してしまう恐ろしい御方もいます。苦しさは人それぞれであるにも関わらずです。
しかし、このように「ある人よりも苦しい人の例を持ち出し、それによってある人が『苦しい』と言えない雰囲気を作る」ようなことが続けば、日本においては誰一人として「生活が苦しい」と言う資格がある人が存在しない事になってしまいかねません(日本より貧しい国の事例を持ちだされる可能性があるので)。こんな感じで現に苦しんでいる人の口を封じ、問題から目をそらすことを強制した上で当人の困難をそのまま呑ませるやり方や雰囲気は、雨宮処凛氏によって「犠牲の累進性」という名前が与えられました。
「貧困問題をどうにかしろ」という声が国民から上がらないようになってしまうと、国家としても貧困対策を後回しにするようになるでしょう。貧困問題の解決を訴える人の口封じをすることで得をするのは、税金の無駄遣いを継続したい国家と、税金を不正に使って甘い汁を吸いたい悪徳政治家です。
苦しいなら「苦しい」と声を上げていい。国民が幸せに暮らせるようにすることが、国家の仕事であり政治家の仕事だ。国家も政治家も、目の前にある貧困問題から目を背けてはならないだろう。
生活が苦しいのなら、率直に「苦しい」と言えば良いのです。賃金が低くて苦しいのなら「もっと最低賃金を上げろ」とか「給料を上げないならストライキするぞ」とか言えばいいわけですし(※後者は労働組合のみんなで言うことになるのか?)、企業が残業代や休日をちょろまかしているのなら「会社は労働者に文句を言う前にまずは労働基準法を守れ」「労働基準監督署仕事しろ」「ヨシフ・スターリンよりも激しくブラック企業を大粛清せよ」みたいな感じで叫ぶことになるのかもしれません。いずれにせよ、これらの言論を封殺することは誰にも許されていません。日本には「言論の自由」がありますから。
そして、国家も政治家も、国民の幸せのために存在するということを忘れてはならないでしょう。間違っても、国家や政治家のために国民が存在するわけではありません。国民が貧困に苦しんでいるのなら、国家はそれをどうにかする必要があるでしょうし、政治家は頑張って貧困問題をどうにかする策を練る必要があるはずです。貧困バッシングに加担した片山さつき議員(2016年9月上旬当時)は論外としても、政治家が貧困問題(に限らず様々な問題)の解決にきちんと取り組んでいるか、悪事を働いていないかについてきちんと監視し、「コイツはダメだ」と思ったら次の選挙できちんと退場させる必要があるでしょう。政治家は曲がりなりにも国民の代表なわけですから。
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