カテゴリ:その他
投稿日:2016年11月22日
最終更新日:
2016年11月、JR北海道はついに維持困難路線(不採算路線)を発表しました。JR北海道単独では維持困難な区間については、上下分離方式による鉄道の維持あるいはバス転換などが検討され、自治体との協議に入るとのことです。
もくじ
- (少なくとも建前上は)「株式会社」であり「民間企業」であるJR北海道に鉄路維持の全責任を押し付けるのは酷である
- 「公共交通の維持費を誰が払うのか」という問題
- 将来的には、「自力で移動できない人は移住してください」とお願いしなければならなくなる日が来るかもしれない
続きを読む
投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年11月15日
最終更新日:
新しい土地に引っ越す時、あるいは新しい学校に入学する時などに、全く不安を感じなかったという人はおそらくいないと思います。新しい環境、新しい組織に飛び込む時に不安を感じる理由として、「入るまで組織のローカルルールがわからない」という点があるのかもしれません。
もくじ
- ローカルルールは表に出ないことが多々ある。故に確かな情報が得られない状態で判断を強いられる。これでは不安を感じて当たり前。
- 文書化されていない・未公開のローカルルールがある限り、新たな組織への不安を拭い去ることは出来ない。ローカルルールと言えども、外部から人を迎え入れるならば文書化して外部に公開せねばならない。
続きを読む
投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年11月11日
最終更新日:
世界津波の日 | 外務省にもあるように、11月5日は国連で「世界津波の日」と定められました。世界有数の災害列島である日本に住む私達は、常日頃から災害に備える必要があります。
もくじ
- 日本列島は災害列島。安全地帯がない以上、備えを怠ることは死を意味する。
- 災害発生件数や災害対策の参考リンクなど
続きを読む
投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年11月02日
最終更新日:
誰かのことを助けようと思ったら、まずは自分がきちんと(それなりの余裕を持って)生活出来ていることが必要になります。そもそも自分の生活が立ち行かない状況だったり、かろうじて生活を維持できている状態でも余裕がなければ、自分の持てるリソースを他人に振り向けるには無理があります。
自分を犠牲にして人を助けることは持続不可能だ。自分を犠牲にしない範囲での人助けならば長続きしやすい。
- 自分に余裕が無いのに「他人を助けろ」と言われてもそれは無理だ。他人を助けるためには、まず自分に余裕がなければならない。経済的な余裕も必要だし、時間的な余裕も必要だ。人助けは自分の生活を損なわない範囲でのみ成り立つ。
- こんなことを書くと私が血も涙もない人間だと思う方もいるかもしれないが、自己犠牲による人助けは持続不可能である。ナイチンゲールも「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」と考えていたそうだ。自分が食べるご飯もない状態で他人にご飯を分け与えることなどできるわけがない。自分が食べるご飯がきちんとあってこそ、他人にご飯を分け与えることができる。
続きを読む
投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年10月28日
最終更新日:
マスコミの一部は犯罪被害者の実名を報道するなど、被害者のプライバシーを無視した悪行を繰り返しています。しかし、犯罪被害者やその家族のプライバシーは当然守られなければならないのです。マスコミも裁判所も、その点には最大限配慮しなければなりません。
犯罪被害者やその家族のプライバシーは守られなければならない。被害者のプライバシーを最大限尊重するのは報道する側の最低限の義務だし、裁判所も裁判員裁判を行うときなどには配慮が必要だ。
- マスコミには確かに報道の自由があるが、プライバシーは誰にだってある。犯罪被害者とて例外ではない。報道の自由の名のもとに犯罪被害者の個人情報を晒しあげることは、完全にプライバシーの侵害である。関係者のプライバシーを最大限尊重するのは報道する側の最低限の義務だ。プライバシーを尊重することさえろくに出来ない報道機関には、マスコミを名乗る資格はないだろう。マスゴミの名が相応しい。
- 裁判所も、裁判員裁判を行うと事件の情報が漏洩する範囲が広がり、その分だけ被害者のプライバシーが蔑ろにされることは自覚しなければならない。裁判員裁判を継続するのであれば、せめて被害者やその家族に対して、裁判に裁判員を入れるか否かの選択権を与える必要があるだろう。犯罪被害者やその家族のプライバシーは守られなければならない。
続きを読む
投稿者名:
Koguma
投稿日:2016年10月18日
最終更新日:
2016年現在、日本では安楽死も尊厳死も合法化されていません。病気などで意識を失った場合、延命治療を行うか否かの決断は家族に委ねられますが、意識があるうちに延命治療を希望するか否かの意思表示を行い、自分が望む形で人生の終わりを迎えられる道を開いても良いと考えます。
意識がないまま生命維持装置によって強制的に延命されるよりは、延命治療をせずに(苦しまずに)死にたいと思う人もいるかもしれない。安楽死・尊厳死を合法化し、誰もが「延命治療をするorしない」を選択できるようにすべきではないか。
- 人間誰しも健康なまま穏やかに死を迎えたい(あるいは死にたくない)と思うだろうが、何らかの事故や病気で意識を失ったり、障害を抱えたりする場合もある。本人が意思表示出来ない状態になると、延命治療を行うか否かは家族に委ねられる。だが、家族とはいえ他人の命を直接左右してしまう決断を迫られる負担はあまりにも大きい。
- 延命治療を行うか否かは、本人が健康な(意識がはっきりしている)間に意思表示を行い、それを書面に残すようにするべきだと考える。また、安楽死・尊厳死を合法化し、延命治療を望む人には延命治療を施し、延命治療の苦しみを味わいたくない人が苦しまずに死を迎えられるように…誰もが人生の終わり方を選択できるようにするべきではなかろうか。
続きを読む
投稿者名:
Koguma